逆問題の定式化――何を既知とするか
順問題は領域と境界条件からスペクトルを求める。
\[ F:\Omega\longmapsto\operatorname{Spec}(-\Delta_\Omega). \]
逆問題は \(F(\Omega)\) から \(\Omega\) を戻す。平行移動・回転・鏡映は距離を保ちスペクトルも変えないので、平面では合同までしか区別しない。多様体では等長までを同一視する。
本書の基本契約は、一様な理想膜、既知の波速、指定した Dirichlet または Neumann 条件、重複度込みの全固有値列である。打点、振幅、位相、減衰、固有関数は含めない。
実際の録音ではこの分離は自動ではない。初期変位 \(u_0\) と初速度 \(v_0\) を固有関数へ射影すると、観測点 \(x\) の変位は
\[ u(x,t)=\sum_k\left( \langle u_0,\phi_k\rangle\cos(c\sqrt{\lambda_k}t) +\frac{\langle v_0,\phi_k\rangle}{c\sqrt{\lambda_k}} \sin(c\sqrt{\lambda_k}t) \right)\phi_k(x). \]
ピーク周波数は \(\lambda_k\) を示すが、高さは打点・初期条件・観測点・固有関数に依存する。減衰や空気放射まで含めれば材料パラメータも入る。「録音が同じ」と「固有値列が同じ」は別の主張である。
無限列でも一意とは限らない
「形も無限次元、固有値も無限列だから情報量は足りる」という数え方は単射性を保証しない。写像が配置情報を潰せば異なる入力が同じ列へ行く。有限次元でも
\[ A=\begin{pmatrix}1&0\\0&2\end{pmatrix},\qquad B=Q^TAQ,\qquad Q=\frac1{\sqrt2}\begin{pmatrix}1&-1\\1&1\end{pmatrix} \]
は同じ固有値 \(1,2\) を持つが行列要素は異なる。これは座標変更なので領域の反例そのものではないが、固有値が固有ベクトル方向を捨てることを示す。
スペクトル不変量とは、等スペクトルなら必ず一致する幾何量である。完全不変量とは、その値が一致すれば形も合同になるデータである。多数のスペクトル不変量があっても、それらが完全不変量とは限らない。
有限次元の類比では、ベクトル \(x=(x_1,x_2,x_3)\) に対し \(x_1+x_2+x_3\) と \(x_1^2+x_2^2+x_3^2\) は二つの不変量になり得るが、同じ二値を持つベクトルは一般に多数ある。不変量を二個知ることと、同値類を一意に指定する完全不変量を持つことは論理的に別である。熱係数を何項も計算できても、それだけでスペクトル全体や形を復元できるとは限らない。
合同と相似も区別する。辺長を全て \(r\) 倍した相似形は見た目の型は同じでも、固有値が \(r^{-2}\) 倍されるので等スペクトルではない。逆問題は尺度まで復元する。座標の名前を変えただけなら同じ幾何だが、Euclid 距離を変える変形は別の形である。
完全・有限・雑音付きデータ
数学的な Kac の問いは無限個を厳密に知る完全データ問題である。実験では
\[ F_N(\Omega)=(\lambda_1,\ldots,\lambda_N)+\text{noise} \]
しか得られない。完全データで一意でも有限データから安定に戻せるとは限らず、一般クラスで非一意でも長方形のような有限パラメータ族なら推定できることがある。
最初の固有値一個だけなら、拡大縮小により任意の形を同じ \(\lambda_1\) に調整できる。一方、未知を半径一個の円板に限定すれば \(\lambda_1=j_{0,1}^2/R^2\) から一個の測定だけで \(R\) が決まる。データ量だけでなく、未知量のクラスが可解性を決める。
よくある二つの誤解
Dirichlet と Neumann の両スペクトルを知れば一般に一意になる、とは限らない。第9–10章の GWW/BCDS 型の対は、Dirichlet 同士だけでなく Neumann 同士も等スペクトルになる。二種類の境界条件は情報を増やすが、一般領域上の完全不変量にはならない。
「固有関数まで知る」という表現にも座標の契約が要る。未知領域上の関数 \(\phi_k\) は、どの点がどの点に対応するかを指定しなければ別領域の関数と比較できない。既知の境界座標上で固有値と法線微分を与える境界スペクトルデータには一意性定理が成り立つ設定があるが、それは裸の固有値列より強い観測である。重複固有値では個々の基底でなく固有空間の射影核を用いる必要もある。
Kac の問いは「有界平面領域の Dirichlet スペクトル写像は合同類上で単射か」である (Kac 1966年)。答えを見る前に、まず確実に聞こえる量を調べる。