熱核と熱トレース――局所幾何をまとめて読む
自由空間の熱から始める
\(\partial_tu=\Delta u\) の \(\mathbb R^d\) 上の基本解は
\[ K_0(t,x,y)=(4\pi t)^{-d/2}\exp\left(-\frac{|x-y|^2}{4t}\right). \tag{7.1} \]
幅は \(\sqrt t\) 程度で、質量積分は1。短時間の熱は遠くへ行かず、局所幾何だけを見る。
領域上で固有関数を正規直交化し、初期温度 \(u_0=\sum a_k\phi_k\) とすると
\[ u(x,t)=\sum_ka_ke^{-t\lambda_k}\phi_k(x). \]
これを積分核で書けば
\[ K(t,x,y)=\sum_ke^{-t\lambda_k}\phi_k(x)\phi_k(y),\qquad u(x,t)=\int_\Omega K(t,x,y)u_0(y)\,dy. \]
作用素のトレースは正規直交基底で対角行列要素を足したものだから
\[ Z(t)=\operatorname{Tr}(e^{t\Delta}) =\sum_ke^{-t\lambda_k} =\int_\Omega K(t,x,x)\,dx. \tag{7.2} \]
最後の等号では固有関数の正規化 \(\int|\phi_k|^2=1\) を使った。固有関数の位置情報は対角積分で消え、固有値だけが残る。
Weyl 則との橋
計数測度 \(dN\) を使うと
\[ Z(t)=\int_0^\infty e^{-t\lambda}\,dN(\lambda) =t\int_0^\infty e^{-t\lambda}N(\lambda)\,d\lambda, \tag{7.3} \]
境界項は部分積分で消える。二次元 Weyl 主要項 \(N(\lambda)\sim A\lambda/(4\pi)\) を代入すると
\[ Z(t)\sim\frac{A}{4\pi t}. \]
小 \(t\) が高周波を見る理由と、二つの漸近則が同じ情報を持つ理由がここにある。逆向きには Tauberian 定理という追加道具が要る。
境界帯と鏡像
内部点では式 (7.1) の対角値 \((4\pi t)^{-1}\) を積分して面積項が出る。境界から距離 \(O(\sqrt t)\) の帯だけが壁を感じる。Dirichlet 境界では鏡像熱源を引いて温度ゼロを作るため戻り確率が減り、Neumann では足すため増える。帯面積 \(L\sqrt t\) と対角核 \(t^{-1}\) を掛けて \(L t^{-1/2}\) の次数が得られる。
半平面で境界からの距離を \(r\) とすると、鏡像点までの距離は \(2r\) なので
\[ K_D(t,x,x)=\frac1{4\pi t}\left(1-e^{-r^2/t}\right). \]
自由空間核との差を境界に垂直な方向へ積分すると
\[ -\frac{L}{4\pi t}\int_0^\infty e^{-r^2/t}\,dr =-\frac{L}{4\pi t}\cdot\frac{\sqrt{\pi t}}2 =-\frac{L}{8\sqrt{\pi t}}. \]
これで符号・次数だけでなく係数まで出た。Neumann は鏡像を足すので符号が正になる。曲がった境界では短時間に小さな半平面として見え、次の次数で曲率補正が現れる。
ここから穴数を読む議論では、対象を 滑らか・有界・連結な平面領域 に固定する。この仮定の下で
\[ Z_D(t)\sim\frac A{4\pi t} -\frac L{8\sqrt{\pi t}} +\frac1{12\pi}\int_{\partial\Omega}\kappa\,ds+\cdots. \tag{7.4} \]
Neumann では周長項の符号が正になる (Gilkey 1995年)。滑らかな連結平面領域で境界成分数を \(b\) とすると Euler 標数は \(\chi=2-b=1-h\)(\(h=b-1\) は穴の数)。Gauss–Bonnet により \(\int\kappa ds=2\pi\chi\) なので、この対象クラスでは定数項から \(\chi\)、したがって穴の数が聞こえる。
多角形では滑らかな曲率公式を使わず、内角 \(\alpha_j\) ごとに
\[ \frac{\pi^2-\alpha_j^2}{24\pi\alpha_j} \]
が Dirichlet 定数項へ寄与する。閉多様体には境界項がなく、
\[ Z(t)\sim(4\pi t)^{-d/2} \left(\operatorname{Vol}(M)+\frac t6\int_M R\,dV+\cdots\right). \]
対象クラスが違えば係数の意味も違う。
三種類の「全部」を区別する
- 全熱係数とは、\(t\downarrow0\) の漸近級数に現れる係数列である。局所曲率量の積分を多く含むが、漸近級数だけから固定した \(t>0\) の関数値が一意に戻るとは限らない。
- 全熱トレースとは、関数 \(Z(t)\) を全ての \(t>0\) で知ることである。正の離散固有値列に対しては Laplace 変換の一意性により、重複度込みの全スペクトルと同値な情報を持つ。
- 全スペクトルとは \(\{\lambda_k\}\) の全列である。それでも第9章の等スペクトル非合同領域を区別できない。
したがって、全熱係数は一般に全熱トレースより弱く、全熱トレースと全スペクトルはこの設定で同値だが、どちらも形の完全不変量ではない。熱係数は局所量の積分で配置を失い、等スペクトル例ではより強い熱トレース全体まで一致する。
漸近係数が関数を決めない最小例は \(e^{-1/t}\) である。\(t\downarrow0\) で任意の \(N\) に対し \(e^{-1/t}=o(t^N)\) なので、その冪級数型漸近展開の全係数は0である。それでも全ての \(t>0\) で関数は正であり、恒等的な0関数とは違う。「全係数」と「関数全体」の差はこの flat term にすでに現れる。
- 面積 \(A=4\)、周長 \(L=10\) の滑らかな平面領域について、Dirichlet 熱トレースの先頭二項を書け。
- \(e^{-1/t}\) と0が同じ冪級数型漸近係数を持つのに、同じ関数でない理由を説明せよ。
- \(Z_D(t)\sim 1/(\pi t)-10/(8\sqrt{\pi t})+\cdots\)。
- 漸近係数は任意の有限冪より速く0へ行く差を検出しない。\(e^{-1/t}>0\) は各 \(t>0\) で直接区別できる。