第0章 何を「空間」と呼び直すのか

Core — 本章は全読者向けである。

0.1 出発点は「非可換」ではなく「空間をどう知るか」

集合としての空間 \(X\) を目の前に置けるなら、点を調べればよい。しかし解析や幾何で実際に観測するのは点そのものではなく、点に数を割り当てる関数である。地形は高さ関数、温度分布は温度関数、座標は座標関数として現れる。そこで逆向きの問いを立てる。

\(X\) 上の関数と、その足し算・掛け算・極限をすべて知れば、\(X\) を取り戻せるか。

コンパクトHausdorff空間なら答えは「取り戻せる」である。\(C(X)\) の元を足し、掛け、複素共役し、一様ノルムで極限を取る構造は、\(X\) の位相を符号化する。点 \(x\) は評価写像

\[ \operatorname{ev}_x:C(X)\to\mathbb C,\qquad f\mapsto f(x) \]

として代数の内部から特徴づけられる。第3章で、この主張をGelfand双対として正確にする。

ところが行列の積は一般に可換でない。\(M_n(\mathbb C)\) をある普通の空間上の複素数値連続関数全体と同一視することはできない。それでも、正値性、状態、射影、ユニタリ、スペクトルといった構造は残る。非可換幾何とは、存在しない点集合を無理に発明することではない。可換な関数環に書き直せた幾何学的概念を、非可換代数でも意味を持つ形に翻訳し、必要なら追加データを与える計画である。

0.2 三つの「スペクトル」を区別する

本書では同じ語が三つの近い文脈で現れる。

  1. 元 \(a\) の代数的スペクトル \(\sigma_A(a)=\{\lambda\in\mathbb C:a-\lambda 1\text{ が }A\text{ で可逆でない}\}\)。
  2. 可換 \(C^*\)-環 \(A\) のGelfandスペクトル \(\widehat A\):非零の複素数値character全体。
  3. Dirac型作用素 \(D\) のスペクトルを幾何データとして使う「スペクトル三つ組」。

三者は無関係ではない。character \(\chi\) による値 \(\chi(a)\) は \(a\) のスペクトルに入り、自己共役作用素のスペクトルは関数計算を可能にし、\(D\) の固有値の増え方は次元を記録する。しかし対象は異なるため、記号を省略して混同しない。

0.3 全体を貫く翻訳表

通常の可換幾何 代数・作用素側 注意点
局所コンパクト空間 \(X\) \(C_0(X)\) 矢印は逆向きになる
点 \(x\) character \(\operatorname{ev}_x\) 非可換環では不足する
確率測度 \(C_0(X)\) 上の状態 Riesz表現を使う
ベクトル束 有限生成射影加群 Serre–Swan定理
位相的K理論 \(K_0(C(X)),K_1(C(X))\) 射影・ユニタリで表す
微分 \(df\) 交換子 \([D,f]\) \(D\) という追加データが必要
Riemann距離 \(D\) のLipschitz半ノルム Connesの距離公式
積分 トレース、weight、非可換積分 III型では有限トレースがない
de Rham理論 Hochschild・巡回コホモロジー 完全な一対一対応ではない

表は結論ではなく、以後の章で一行ずつ正当化するための目次である。

0.4 「点の一般化」は一つではない

可換 \(C^*\)-環ではcharacter、純粋状態、既約表現が密接に結びつく。非可換環では役割が分岐する。

  • characterは一次元表現であり、\(M_n(\mathbb C)\)(\(n>1\))には存在しない。
  • 純粋状態は凸集合の端点として量子的な「最大限に精密な状態」を表すが、通常の点と同じではない。
  • 既約表現は代数を具体的な作用素として見る方法を表す。
  • primitive idealは既約表現の核であり、ある種の非可換スペクトルを作る。

したがって「非可換空間の点は状態である」と断定しない。何を復元したいかに応じて代理物が変わることが、非可換化の本質の一部である。

0.5 読了時の自己検査

各章末の問いに加え、最終的には次の筋道を自力で再構成してほしい。

  1. 無限次元では固有値だけで作用素を理解できず、可逆性に基づくスペクトルが必要になる。
  2. 作用素を和・積・随伴・極限に閉じて扱うと、代数と解析が結びつく。
  3. 可換 \(C^*\)-環は局所コンパクトHausdorff空間の関数環として復元できる。
  4. 可換性を外すと点は足りないが、状態・表現・加群・K理論は残る。
  5. 微分や距離には代数だけでなくDirac型作用素が必要になる。
  6. K理論の類と巡回コホモロジーの類を組み合わせると指数が得られ、幾何と解析が同じ整数に集約される。