第2章 作用素を集める:Banach環からC*-環へ

Core — 代数構造と解析構造を同時に要求する理由を理解する。

2.1 単独の作用素では見えないもの

一つの作用素 \(T\) を調べるだけでも、その多項式 \(p(T)\)、resolvent \((T-\lambda I)^{-1}\)、随伴 \(T^*\)、スペクトル射影を同時に扱う。量子力学なら、二つのobservableの和、順次測定を表す積、複素共役に対応する随伴、極限で得られるobservableが必要になる。

そこで作用素の集合を、少なくとも次の操作で閉じる。

  • 和と複素スカラー倍:線形構造。
  • 積:合成を内部に保つ。
  • 随伴:内積と正値性を反映する。
  • ノルム極限:近似で作った対象を内部に保つ。

この全部を同時に満たす抽象構造が \(C^*\)-環である。

2.2 Banach環:掛け算と極限の共存

Banach環とは、完備なノルム空間 \(A\) で、結合的積があり

\[ \|ab\|\le\|a\|\,\|b\| \]

を満たすものをいう。完備性は技術的な飾りではない。たとえば \(\|x\|<1\) のとき形式的な逆元

\[ (1-x)^{-1}=1+x+x^2+\cdots \]

を本当に \(A\) の元にするには、級数の極限が \(A\) 内に必要である。

しかしBanach環だけでは「実数値関数」「自己共役observable」「絶対値の二乗」に当たる概念がない。そこで反線形写像 \(*:A\to A\) で

$$ (ab)*=ba^,(a*)*=a

$$

を満たすものを加える。積の順序が逆になるのは、作用素の随伴 \((ST)^*=T^*S^*\) を抽象化したためである。

2.3 なぜ単なるBanach \(*\)-環では足りないか

Banach \(*\)-環ではノルムと随伴が独立に与えられ得る。その場合、抽象的な \(a^*a\) が具体的作用素の「長さの二乗」と同じ振る舞いをする保証がない。\(C^*\)-環では決定的な条件

\[ \boxed{\|a^*a\|=\|a\|^2} \]

を要求する。

\(B(H)\) で確認する前に、随伴のノルムを \(C^*\)-恒等式とは独立に求める。Hilbert空間では

\[ \|\zeta\|=\sup_{\|\eta\|=1}|\langle\zeta,\eta\rangle| \]

だから

\[ \begin{aligned} \|T^*\| &=\sup_{\|\eta\|=1}\sup_{\|\xi\|=1}|\langle T^*\eta,\xi\rangle|\\ &=\sup_{\|\eta\|=1}\sup_{\|\xi\|=1}|\langle\eta,T\xi\rangle| =\|T\|. \end{aligned} \]

この等式は内積の双対表示と随伴の定義だけから従い、\(C^*\)-恒等式を先取りしていない。これを使えば、劣乗法性から \(\|T^*T\|\le\|T^*\|\|T\|=\|T\|^2\)。逆向きは、\(\|\xi\|=1\) に対して

\[ \|T\xi\|^2=\langle T^*T\xi,\xi\rangle\le\|T^*T\| \]

なので、上限を取って \(\|T\|^2\le\|T^*T\|\) となる。したがって等号が成立する。

この一式から、実は次が従う。

  • \(\|a^*\|=\|a\|\)。
  • \(*\)-準同型は自動的に連続で、単射なら等長になる。
  • 正規元では \(\|a\|=r(a)\)。
  • 正値元のスペクトルは \([0,\infty)\) に入る。
  • ノルムは代数構造と \(*\) から一意に定まる。

つまり \(C^*\)-恒等式は単なる良い評価ではなく、代数をHilbert空間上の作用素のように振る舞わせる剛性条件である。

2.4 定義と最初の帰結

\(C^*\)-環とは、Banach \(*\)-環 \(A\) で \(\|a^*a\|=\|a\|^2\) を満たすものをいう。単位元は必須としない。

命題. \(C^*\)-環で \(\|a^*\|=\|a\|\)。

[証明]

\[ \|a\|^2=\|a^*a\|\le\|a^*\|\|a\| \] より \(a\neq0\) なら \(\|a\|\le\|a^*\|\)。\(a^*\) に同じ議論を適用すると逆向きが得られる。\(a=0\) は自明である。\(\square\)

2.5 正値性は順序を作る

\(a=b^*b\) と書けるとき \(a\ge0\) と書く。\(C^*\)-環では、これは「\(a=a^*\) かつ \(\sigma(a)\subset[0,\infty)\)」と同値である。正値元全体 \(A_+\) は閉凸錐で、

\[ a\le b\quad\Longleftrightarrow\quad b-a\in A_+ \]

により自己共役部分に順序が入る。

正値元 \(a\) には一意な正値平方根 \(a^{1/2}\) がある。これは連続関数計算で \(t\mapsto\sqrt t\) を \(a\) に適用して作る。したがって「\(b^*b\) と書ける」という定義と「スペクトルが非負」という定義が一致する。

公理から \(C^*\)-恒等式を落とすと、スペクトルによる正値性、平方根、状態の正値性、表現のノルム制御を結ぶ鎖が切れる。Banach \(*\)-環にも重要な理論はあるが、普通の位相空間とHilbert空間上の作用素を同じ枠で扱うGelfand–Naimark理論の剛性は失われる。

2.6 連続関数計算

正規元 \(a\in A\) が生成する単位的 \(C^*\)-部分環 \(C^*(1,a)\) は可換である。第3章のGelfand理論により

\[ C^*(1,a)\cong C(\sigma(a)) \]

となり、座標関数 \(z\mapsto z\) が \(a\) に対応する。したがって各 \(f\in C(\sigma(a))\) に \(f(a)\) を対応させられる。多項式計算を連続関数まで延長したものが連続関数計算である。

これにより平方根や絶対値 \(|a|=(a^*a)^{1/2}\) は代数の内部で作れる。しかし、一般のBorel集合 \(E\subset\sigma(a)\) の指示関数 \(1_E\) は連続でないため、スペクトル射影 \(1_E(a)\) は一般には \(C^*(1,a)\) に入らない。たとえば \(a(t)=t\in C([0,1])\) に対する \(1_{[0,1/2]}(a)\) は不連続関数である。連続関数で点ごとに近似できても通常はノルム収束せず、表現を選んで強作用素極限を取る必要がある。第5章で、von Neumann環のBorel関数計算がこの不足を補う。「関数を作用素に代入する」範囲を、連続関数とBorel関数で区別することが重要である。

2.7 基本例と各例の役割

\(M_n(\mathbb C)\)

作用素ノルムと共役転置で有限次元 \(C^*\)-環になる。非可換性、正値性、状態、射影を計算できる最小の実験場である。有限次元 \(C^*\)-環は行列環の有限直和に同型である。

\(B(H)\)

すべての有界作用素の環。抽象 \(C^*\)-環の表現先であり、強・弱作用素位相を導入する舞台でもある。\(H\) が無限次元なら非可分なほど大きく、ノルム閉性と弱閉性の違いが現れる。

\(K(H)\)

コンパクト作用素全体。\(B(H)\) の閉両側イデアルで、無限次元可分Hilbert空間では単位元を持たない。有限次元的な近似を保持し、Morita同値とFredholm理論の基準点になる。

\(C(X)\) と \(C_0(X)\)

コンパクトHausdorff空間 \(X\) なら、一様ノルムと点ごとの複素共役で \(C(X)\) は単位的可換 \(C^*\)-環になる。局所コンパクトHausdorff空間では無限遠で消える関数の環 \(C_0(X)\) を使う。単位元を持つのは \(X\) がコンパクトな場合に限る。

群 \(C^*\)-環

離散群 \(G\) の有限台関数に畳み込み

\[ (f*g)(t)=\sum_{s\in G}f(s)g(s^{-1}t) \]

と \(f^*(t)=\overline{f(t^{-1})}\) を入れ、適切な作用素ノルムで完備化する。群の積が非可換なら環も非可換になる。対称性を代数へ変換する入口である。最大群 \(C^*\)-環と被約群 \(C^*\)-環は一般には異なるため、第11章で区別する。

2.8 閉イデアルと商

閉両側イデアル \(I\triangleleft A\) に対し、商 \(A/I\) は自然なノルムと随伴で \(C^*\)-環になる。可換な場合、\(X\) の閉部分集合 \(F\) への制限写像

\[ C(X)\to C(F) \]

の核は \(F\) 上で消える関数である。したがって商は部分空間への制限を表す。一方、\(B(H)/K(H)\) という商は「コンパクトな誤差を無視した作用素」を表し、Fredholm性を可逆性に翻訳する。

2.9 Gelfand–Naimark表現定理への予告

抽象 \(C^*\)-環は、あるHilbert空間 \(H\) 上のノルム閉な \(*\)-部分環として忠実に表現できる。証明は第4章で、すべての状態からGNS表現を作り、それらを直和することで得る。

この定理は「抽象公理が具体例を模倣している」というだけでなく、「その公理を満たせば本当に作用素環として実現できる」と保証する。したがってabstract algebraとoperator algebraはこの範囲で同じ対象の二つの見方になる。

2.10 章末の確認

  1. 完備性がNeumann級数に必要な理由を説明せよ。
  2. \(C^*\)-恒等式が随伴とノルムを結ぶ仕組みを説明せよ。
  3. \(C_0(X)\) が単位元を持つ条件を示せ。
  4. \(K(H)\subset B(H)\) と商 \(B(H)/K(H)\) が何を忘れるか予想せよ。