第1章 行列から作用素へ:無限次元で何が壊れるか
Core — スペクトルと有界作用素の必要性を導く。
1.1 有限次元で暗黙に使っていた事実
\(A\in M_n(\mathbb C)\) について、次を同時に使ってきた。
- 線形写像はすべて連続である。
- 単射、全射、可逆が同値である。
- スペクトルは固有値の有限集合である。
- 自己共役行列はユニタリ行列で対角化できる。
- 閉単位球はコンパクトである。
これらの多くは有限次元性に依存する。無限次元へ移る際に必要なのは、行列の添字を無限にすることではなく、どの性質を保持し、どの性質を置き換えるかを決めることである。
1.2 Hilbert空間と有界作用素
複素Hilbert空間 \(H\) は、内積から来るノルム \(\|\xi\|=\sqrt{\langle\xi,\xi\rangle}\) について完備な複素ベクトル空間である。線形写像 \(T:H\to H\) が有界とは、ある \(C\ge0\) が存在して
\[ \|T\xi\|\le C\|\xi\|\qquad(\xi\in H) \]
となることをいう。最小の \(C\) が作用素ノルム
\[ \|T\|=\sup_{\|\xi\|\le1}\|T\xi\| \]
である。線形写像について、有界性と連続性は同値である。
なぜ最初から非有界作用素を含めないのか。微分作用素やDirac作用素は通常非有界なので、最終的には必要になる。しかし非有界作用素は定義域が全空間でないことが多く、和や積の定義域が変わり、積が結合的に扱えるかにも注意が要る。有界作用素全体 \(B(H)\) は、和・積・随伴・ノルム極限に閉じた安全な環境を与える。非有界作用素は第10章で、resolventや有界変換を通して戻ってくる。
1.3 随伴は転置共役の代わりである
各 \(T\in B(H)\) に対し、Riesz表現定理により一意な \(T^*\in B(H)\) が存在して
\[ \langle T\xi,\eta\rangle=\langle\xi,T^*\eta\rangle \]
を満たす。有限次元で正規直交基底を選べば、これは行列の共役転置である。
- \(T=T^*\): 自己共役。
- \(T^*T=TT^*\): 正規。
- \(T^*T=TT^*=I\): ユニタリ。
- \(T=S^*S\) と書ける、同値に \(\langle T\xi,\xi\rangle\ge0\): 正。
- \(P=P^*=P^2\): 直交射影。
直交射影 \(P\) と閉部分空間 \(PH\) は一対一に対応する。この対応は、後にvon Neumann環の射影を「測定可能な命題」や「非可換な部分集合」と読む根拠になる。
1.4 unilateral shift:単射なのに全射でない
\(H=\ell^2(\mathbb N_0)\) の標準正規直交基底を \((e_0,e_1,\ldots)\) とし、
\[ Se_n=e_{n+1} \]
と定める。\(S\) は等長写像なので \(\|S\|=1\)、したがって単射である。しかし像は \(e_0\) に直交するベクトルだけからなり、全射でない。よって左逆 \(S^*S=I\) はあるが、\(SS^*=I-P_{\mathbb Ce_0}\neq I\) である。
有限次元では正方行列の左逆と右逆は一致した。shiftは、その推論が次元に依存していたことを最小の式で示す。
1.5 固有値でないスペクトル
単位的Banach環 \(A\) と \(a\in A\) に対し、
\[ \sigma_A(a)=\{\lambda\in\mathbb C:a-\lambda1\text{ が可逆でない}\} \]
をスペクトルという。\(A=B(H)\) なら「可逆」は有界な逆作用素を持つことまで含む。
shift \(S\) は固有値を持たない。実際、\(Sx=\lambda x\) を座標で書くと、第0成分から \(\lambda x_0=0\) であり、順に全成分が0になる。それでも \(\sigma(S)\) は閉単位円板である。
まず \(|\lambda|>1\) なら
\[ S-\lambda I=-\lambda\left(I-\lambda^{-1}S\right) \]
で、\(\|\lambda^{-1}S\|<1\) だからNeumann級数
\[ (I-\lambda^{-1}S)^{-1}=\sum_{n=0}^{\infty}\lambda^{-n}S^n \]
がノルム収束し、\(S-\lambda I\) は可逆である。
一方 \(|\lambda|<1\) では
\[ v_\lambda=(1,\overline\lambda,\overline\lambda^2,\ldots)\in\ell^2 \]
が \(S^*v_\lambda=\overline\lambda v_\lambda\) を満たす。したがって \(S-\lambda I\) の像は \(v_\lambda\) に直交し、稠密でさえないので可逆でない。スペクトルは閉集合であるから境界 \(|\lambda|=1\) も含む。ゆえに
\[ \sigma(S)=\{\lambda:|\lambda|\le1\}. \]
固有値が一つもなくても巨大なスペクトルを持つ。これが「スペクトル=固有値」という有限次元の同一視を捨てる理由である。
1.6 point・continuous・residual spectrum
一般の有界作用素 \(T\) について、\(T-\lambda I\) の失敗を分解できる。
- point spectrum:単射でない。つまり固有値。
- continuous spectrum:単射で像が稠密だが全射でなく、有界逆を持たない。
- residual spectrum:単射だが像が稠密でない。
文献により境界上の定義に差があるため、本書では使うときに条件を明記する。自己共役作用素ではresidual spectrumは現れない。shiftの開円板は上の分類ではresidual spectrumに入り、その随伴 \(S^*\) では固有値になる。
1.7 スペクトルが空でなくコンパクトである理由
定理. 単位的複素Banach環 \(A\) の各 \(a\in A\) に対し、\(\sigma_A(a)\) は空でないコンパクト集合で、\(\sigma_A(a)\subset\{\lambda:|\lambda|\le\|a\|\}\) である。
[証明] \(|\lambda|>\|a\|\) なら
\[ a-\lambda1=-\lambda(1-\lambda^{-1}a) \]
であり、\(\sum_{n\ge0}(\lambda^{-1}a)^n\) が収束するため可逆である。したがってスペクトルは半径 \(\|a\|\) の閉円板に含まれる。
可逆元の集合は開である。実際、\(b\) が可逆で \(\|b-c\|<\|b^{-1}\|^{-1}\) なら
\[ c=b\bigl(1+b^{-1}(c-b)\bigr) \]
の第2因子はNeumann級数で可逆である。よってresolvent集合 \(\mathbb C\setminus\sigma(a)\) は開、スペクトルは閉であり、有界性と合わせてコンパクトである。
空でないことだけは複素解析を使う。もしすべての \(\lambda\) で \(a-\lambda1\) が可逆なら、resolvent \(R(\lambda)=(a-\lambda1)^{-1}\) はBanach空間値の整関数になる。任意の連続線形汎関数 \(f\in A^*\) に対し \(f(R(\lambda))\) は複素数値整関数であり、無限遠で0へ行くのでLiouvilleの定理により0である。Hahn–Banachによりすべての \(f\) が消えるなら \(R(\lambda)=0\) となり、逆元であることに矛盾する。\(\square\)
1.8 スペクトル半径
\[ r(a)=\sup\{|\lambda|:\lambda\in\sigma(a)\} \]
をスペクトル半径という。Gelfandのスペクトル半径公式は
\[ r(a)=\lim_{n\to\infty}\|a^n\|^{1/n}=\inf_{n\ge1}\|a^n\|^{1/n} \]
である。完全証明にはCauchy積分またはresolventの解析を使う。ここで重要なのは、ノルムが一回ごとの最大増幅率を測るのに対し、スペクトル半径は反復した長期的増幅率を測ることである。正規作用素では第2章の \(C^*\)-恒等式から \(r(a)=\|a\|\) が従う。
1.9 コンパクト作用素:有限次元性の残像
\(K\in B(H)\) がコンパクトであるとは、単位球の像の閉包がコンパクトであることをいう。有限階数作用素はコンパクトであり、Hilbert空間上ではコンパクト作用素は有限階数作用素のノルム極限である。
コンパクト自己共役作用素では、0以外のスペクトル点は有限重複度の固有値で、集積点は0しかない。有限次元の対角化に最も近い無限次元理論である。一方、恒等作用素は無限次元ではコンパクトでない。この差が後に \(B(H)/K(H)\) とFredholm理論を生む。
1.10 章末の確認
- shiftが左逆を持つのに可逆でない理由を式で説明せよ。
- \(\sigma(S)\) が固有値集合より大きい理由を説明せよ。
- 「非有界作用素は不要」ではなく「最初の代数として有界作用素を選ぶ」理由を述べよ。
- コンパクト作用素が有限次元線形代数のどの性質を保持するか述べよ。