第9章 マルチンゲールは何を保存するか

第9章 マルチンゲールは何を保存するか

STATUS: この節の主張は、定理・引用定理・発見法・予想を区別して読む。 STATUS: スケーリング極限や連続極限のうち本章で証明していない入力は、本文中で外部入力として扱う。

曲線に関する事象 \(A\) を考える。時刻 \(t\) まで見たときの条件付き確率 \[ M_t=\mathbb P(A\mid\mathcal F_t) \] はマルチンゲールである。SLE では、過去を消して標準領域へ戻すことで、この \(M_t\) を \(g_t(z)-U_t\) の関数として書ける場合がある。

たとえば \(Z_t=g_t(z)-U_t\) とおくと \[ dZ_t=\frac{2}{Z_t}\,dt-\sqrt{\kappa}\,dB_t. \] 実部 \(X_t\)、虚部 \(Y_t\) に対する生成作用素は \[ \mathcal L = \frac{\kappa}{2}\partial_x^2 +\frac{2x}{x^2+y^2}\partial_x -\frac{2y}{x^2+y^2}\partial_y. \] 関数 \(f\) が \(\mathcal L f=0\) を満たすと、伊藤公式により drift が消える。ただし PDE を満たすだけでは十分でない。停止時刻、局所化、一様可積分性、境界条件の確認が必要である。これを省くと、形式的な martingale と真の martingale を混同する。

条件付き確率がマルチンゲールになる理由

事象 \(A\) を固定し、情報量が時間とともに増える filtration \((\mathcal F_t)\) を考える。\(M_t=\mathbb P(A\mid\mathcal F_t)\) は、時刻 \(t\) まで見たときの \(A\) の現在の予測である。さらに未来の情報 \(\mathcal F_s\) まで見てから、もう一度時刻 \(t\) の情報へ戻して平均すると、 \[ \mathbb E[M_s\mid\mathcal F_t] = \mathbb E[\mathbb P(A\mid\mathcal F_s)\mid\mathcal F_t] = \mathbb P(A\mid\mathcal F_t) = M_t \] となる。これがマルチンゲール性である。

SLE で使うマルチンゲールは、この一般原理を Loewner 座標へ書き換えたものである。曲線の過去を見た後、未来の法則は標準領域で再び SLE になる。したがって、通過確率や到達確率を標準座標の関数で表すと、時間が進んでも条件付き期待値が保存される。

伊藤補正はどこで出るか

\(Z_t=X_t+iY_t=g_t(z)-U_t\) とすると、Brown 運動が入るのは実部 \(X_t\) である。関数 \(f(X_t,Y_t)\) に伊藤公式を使うと、一次の項だけでなく \[ \frac12(dX_t)^2\,\partial_x^2 f \] が出る。ここで \((dX_t)^2=\kappa\,dt\) なので、生成作用素に \[ \frac{\kappa}{2}\partial_x^2 \] が現れる。これは通常の連鎖律にはない項であり、SLE の PDE に \(\kappa\) が入る場所である。

PDE \(\mathcal L f=0\) は drift を消す条件である。境界値は、曲線がどちら側を通ったか、点を飲み込んだか、ある境界弧へ到達したかなど、事象の意味から決まる。したがって、SLE の計算は「幾何的事象を決める」「Loewner 座標へ移す」「生成作用素の境界値問題を解く」という三段階で進む。

局所マルチンゲールから確率公式へ戻る最後の段階も忘れてはいけない。停止時刻 \(\tau\) まで \(M_{t\wedge\tau}\) がマルチンゲールであることは、\(\tau\) の後まで使える有界な確率公式を直ちに与えない。\(\tau\) を増やす極限で一様可積分性、または有界収束・単調収束に使える評価を別に示す必要がある。

この点は、PDE を解いただけで証明が終わらない理由を説明する。PDE は局所的な drift の消去を保証する。境界値と停止時刻の評価は、局所解を実際の hitting probability へ戻す。SLE で計算を再利用するときは、この二つの層を分けて引用する。

本章の到達点

本章で解決した問いは、SLE のマルチンゲールが形式的な飾りではなく、条件付き確率を Loewner 座標で保存量として表す道具であることだった。残った問いは、具体的な幾何事象に対して境界条件をどう置くかである。次章では、左側通過確率公式でそれを計算する。